私的に感じたこと
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日付:2011/12/08 (Thu) 09:59:24 -名前:A
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実際に自分が見たこともない他人の情報だけで、軽々しく批判は出来ないが、私的に感じたことを。
私は会員になることはなかった者ですが、1990年以前から本に触れ、今では絶版となったものも含め 初期段階の書籍は殆ど書店で購入し、読んでいた者です。 当時は高橋信次氏関連の霊言?の書籍が非常に多かった(GLA関係者以外であれば、大川氏の本を読み、初めて高橋信次氏の存在を知ったという方も、沢山いらっしゃったと思います。谷口氏や出口氏、その他の方々に関しても然りです) 当時は会員になる為の必須条件として、GLAの高橋信次氏の著書を読むことも含まれていたものです。 然し、後々の高橋氏に対しての展開は、皆さんが御存知の通りです。 私はGLAでもなく、高橋氏を擁護する訳ではないのですが、あれだけの書籍を高橋氏の名を借りて出版し、「分かってはいたが、騙されたふりをしていた」なら、初めから出版することすら控えるべきだったのではないか?...........それは方便という言葉ではなく、単なる言い訳に感じています。 Re: 私的に感じたこと
日付:2011/12/08 (Thu) 22:38:01 -名前:A
当時、1999年に関連した、ノストラダムス関連の終末予言本も出版されましたが、予言が成就することはなかったものです。後々の時系列での予言も成就することはありませんでした。
予言が成就する、しないの時間差は、よく「霊界とこの世の時間的なズレ」を引き合いにし、また成就しないことに関連して「祈りによって回避された」という文言が多く見受けられますが その様なことも実際にはあるのでしょうが、それはただ単に、都合のいい免罪符に感じてしまいます。 後からどうとでも言えるものです。高橋氏のみならず、後からではなく当時、それを発していた責任の所在を感じてしまいます。 Re: 私的に感じたこと
日付:2011/12/08 (Thu) 22:40:19 -名前:A
その他にも、当時とは真逆なことが沢山ありますが
その全てに於いて、都合の悪いことは後付けの言い訳をし、悪霊や悪魔のせいにしてきた節が多く見受けられます。 本を多く読む人間は、言葉も多く知っています。 文章表現能力も巧みです。 知識が多く詰まっていますから、次から次へと言葉も湧いてきます。 「地位は人を創る」という言葉があります。 「賢者は善いことを言うが、善いことをいう皆が賢者ではない」という言葉もあります。 社会的に成功し、献金による収入も増し、どの様な暮らし向きをしようが、それは本人の実力に負うところなので言及は避けますが、落ち着いて冷静に考えてみれば分かることばかりです。 Re: 私的に感じたこと
日付:2011/12/10 (Sat) 23:31:47 -名前:A
私は、ネットなどでこういう場に書き込み、またはROMすらも多くはしないものです。
時間的に余りゆとりがない、と云うのもひとつの理由なのですが、文章表現能力が乏しいのも在ります。 ですから、不慣れな為にトピの件の様な初歩的なことで、元熱烈信者様からご指摘を受け、管理人でいらっしゃいますウエスト様に余分な徒労を為すはめに..........。 然し、それでも新参者の私に、快く御叮嚀に説明、または返答して頂いたことに感謝します。 私は前記しましたが、本を読んだだけであり、会員ではありません。 ただ、初めて触れた本が太陽の法であり、当時はその思想形態に傾倒したことは言うまでもありません。 夢中になって次から次へと本を読み、書店にないものは近くの支部まで出掛けて迄して購入したものです。 当然ながら支部に行けば「それだけ熱心なら」と 会員勧誘のお誘いは在りましたが、やんわりと断っていたものです。 会員でもなく、内部事情に詳しくもなく、私の書く内容など何の説得力もないものですが 「私的に感じたこと」ですので、少しずつ時間の在る時に書くことをお許し下さい。 Re: 私的に感じたこと
日付:2011/12/11 (Sun) 00:28:01 -名前:A
私は当時、ある住職に師事し、未熟ながらも、それなりに人の生きる道を真摯に学んでいたものです。
休日などは、伝道に来るエホバの証人なども家に招き入れ、論争よりは教義の矛盾など、談笑に近い形でざっくばらんな話などをしていたものです。宗教的な話をすることが好きだったのかもしれません。 そんな折、幸福の科学の会員の方を二名、招き入れたことが在ります。 私の家の本棚を見て、会員の方々達も、今更話すことは何もなかったのだと思います。 そして後日、「どうしても支部長に逢わせたい」ということで ある支部に行くことになったのです。 実はそれが、私が幸福の科学から離れた理由のひとつのきっかけになったのです。 支部長は多忙な中、時間を割いて逢う、ということでしたので 時間的な調整をして支部でお逢いしたのを憶えています。 互いに自己紹介などをし、逢ってすぐ「これが正心法語です」と 自分の胸ポケットから取り出して、それを見せてくれたものです。 当時、私はある悩みを抱えていたものです。 大した悩みではなかったのですが、それを支部長に話したところ 「それなら私が祓ってあげましょう」ということになり 小さな支部だったのですが、中央の椅子に座らされ、何が始まるのかと厳粛な心持ちでいましたところ ブツブツ何かを唱え始め、突然、妙な動きと共に大きな声で「エルカンターレ ファイト!」 「エルカンターレ ファイト」「エルカンターレ ファイト」 ............................「えっ?」..........呆気にとられてぽか~んな私。 正直それらの行為を見てゾッとしたのです。鳥肌が立ったのです。私に悪霊や悪魔が憑いていて、その神聖?な行為に鳥肌が立った訳ではありません。きっと幸福の科学の会員の方なら、私に悪霊が憑いてるとでもおっしゃるかもしれませんが..........その鳥肌ではないのです。 Re: 私的に感じたこと
日付:2011/12/11 (Sun) 00:52:12 -名前:A
「何かが違う..............」
これがまず最初に私の心に去来した想いです。 本に書かれている内容と違う........上手く表現出来ませんが、それを見て何故かそう感じてしまい、そのギャップに鳥肌が立ったのです。例えばそれは、どう表現すればよいのでしょうか。 ずっと優しかった彼氏が突然信じられない様な、下卑た暴言を吐いた時の様な驚きや衝撃とでもいいましょうか。 裏切られた様な気持ちに似ています。 何かが変だ........これは違う!そう正直に感じたものです。 その為の鳥肌でした。 Re: 私的に感じたこと
日付:2011/12/11 (Sun) 01:27:59 -名前:A
あれじゃ、悪魔や悪霊はおろか、低級霊さえも祓えない........直感的にそう感じたものです。
あれだけの思想教義を為す組織の幹部が、真面目にこんな馬鹿げたことをしているのか...... 正直、残念な気持ちで帰路についたことを憶えています。 後日、先日お逢いした会員の方が訪ねて来られ、エルカン祭のチケットを二人分置いて行かれましたが、当然ながら、行かなかったことは言うまでもありません。 人間には、口や言葉や手先が在る以上、美辞麗句や善いことなど、いくらでも言えるし書けるものです。 逆に言えば、実はこの言葉ほど、信用出来ないものはない、と言えるかもしれません。 いくらでも自らを飾る、隠す道具になるからです。 昔から無くならない詐欺商法や振り込め詐欺、結婚詐欺やネットの出会い系などの犯罪がいい例です。 全ては、その言葉を信用するが上での出来事になります。 「賢者は尊いことを言うが、尊いことを言う者が、皆賢者とは限らない」 ですから、私などはそう時に想うものです。 Re: 私的に感じたこと
日付:2011/12/11 (Sun) 09:06:23 -名前:ミホ
Aさまこんにちは。
>あれじゃ、悪魔や悪霊はおろか、低級霊さえも祓えない........直感的にそう感じたものです。 HSには 今では本当に 職員さんでも把握しきれていないんじゃないか・・と思うほど ありとあらゆる祈願があります。 悪霊撃退は、家庭でもできるお祈りとして 私も日常的にやっていました。 修法といって、ファイトとかヒーリング(病気治し)と祈りながら、祈願の際の手を大きく振ったりするんです。 始めは、違和感もありましたし、私も 当初はおかしくて思わず笑ってしまったのですが、慣れとは恐ろしいものです。 Aさんのような、正直な感覚をいつのまにか心の底に沈めてしまいました。 効かなければ、御心(みこころ)で今はその時期ではないとか、祈願は重ねることが修行だとか もう、祈願をするのは 信者として当たり前の行為になってしまうのです。 だんだん祈願が当たり前になって、どれほど、お金をつぎ込んだことか。 直接 総裁に祈りが届く祈願という 高額な祈願。 過去の罪が 全部許されるという 高額な祈願。 魂を再生し仏の光を入れて、未来を変えていくという 高額な祈願もありました。 みな、お金ですね。 でも発展したり、祈願が成就したりするのは、精舎が建ったりすることばかり。 主に直接届くというので、清水の舞台で祈願した 当時唯一の我が家の切なる希望はかなえられませんでしたよ。 支部精舎建立という願いはかなえられたんですね。建ちました。今考えれば ばからしいです。 『ファイト』と祈願されると、「あなたに、悪霊ついてる」と言われているみたいで気分が悪いと 子どもは、嫌がってました。 初めていらしたAさんに、いきなりやるとは失礼ですよね。 そういうデリカシーのなくなってしまう、組織だったのです。 家庭でも私がそんなふるまいをしてたことを反省しつつ・・ Re: 私的に感じたこと
日付:2011/12/12 (Mon) 01:04:23 -名前:A
ミホさんへ
私などの拙い書き込みに、辛い過去にも関わらず、当時の実情をコメントして頂き、誠にありがとうございます。 でも過去を悔まないで下さいね。必要なことだったんです、だから健全な今が在るのですから。 過去を生きてこその、そして今が「活きる」に繋がるのだと思います。 同時に、ミホさんが書いた様な思考回路に陥ってしまうところが、典型的なカルトの呪縛なのだと深く考えさせられたものです。 関谷氏やファルコン氏、アイマイミー氏やその他多くの方々の、説得力ある実証や確証の裏付けされる告発ほど、強力なものは他には無い様に思われます。(実はこの私も詳しく目を通すのは、ここ数日が初めてのことになります) 一人でも多くの方々が悪しき呪縛から解放され、また本来の健全な暮らしに戻れます様、願ってやまないものです。 Re: 私的に感じたこと
日付:2011/12/12 (Mon) 18:10:40 -名前:アイマイミー
祈願とエルカンファイト一発について
●祈願には重要な問題点があります。 普通、どんな宗教でも、祈願祭は、その宗教の代表者が親祭しますよね。古くからある宗教も、新々宗教も祈願の際は、その宗教の代表者が祭りを執り行います。 ところが幸福の科学は、大川センセの主祭する祈願祭は過去に一度もありません。不思議ですね。まぁ、大川センセは、普段からそういう神事には無関心でしたし、自分の子どもが病気になっても、祈らずに病院送りにしてましたから。 あの家族も、家族のために祈るなんてことはしてませんよ。きょう子氏に悪魔が入ったなら、お祈りして追い出せばいいのに、そんなことせずに叩き出してますから・・・ それと、祈願でお守りとかが配られますが、おのお守りにはへんなものは入っても、よきものは何も入っていません。だって、あのお守り類は、制作した工場から宅配便で直送され、そのまま陳列されてるんですから。 神社仏閣では神主や僧侶によって必ず事前に祈願をします。しかし、幸福の科学では誰も事前に祈願をしません。お札やお守りがついたら、すぐに、明日の商売のために陳列されます。 信者は言うでしょう。「本尊の前に置いたのだから光を浴びてる」と。でも、その本尊も効果があるのは疑わしい限りで、本尊も祈願なしにおいているだけですから。しかも、幸福の科学の教祖が祈願祭に金儲け意外は関心がないのですから・・・、 それと同様なのが、修法で、エルカン一発などは効き目がありません。 もし効き目があるとすれば、かけられた人が気持ちよくなって眠たくなるだけです。 裁判なんかでも、裁判官に対して必死でyってましたけど、90%が幸福の科学の敗訴。 残りの勝訴は大勢に関係のない枝葉末節部分での勝訴(くわしくは「347HS」参照)。 ファイト一発が効き目あるなら、大川センセがきょう子氏にして悪魔を追い払えばいいじゃあ~りませんか(笑) 悪魔払いの出来ない人が教祖さまという宗教は・・・ 私も、支部長時代、真に受けていろいろやりました。ファイト一発も、ヒーリングも。効いたと思っていたのはブラシーボ効果で、あの、あめ玉をなめさせる治療法と同じものだったのですね。 それと、ヒーリングで奇蹟続出と喧伝していますが、幸福の科学では、奇蹟体験を他人が語ってますね。普通の宗教団体では、奇蹟は体験者本人が語るんですが・・・ Re: 私的に感じたこと
日付:2011/12/15 (Thu) 13:42:03 -名前:A
アイマイミーさん
詳しいお話を教えて頂き、ありがとうございます。 私は初期本を読んだだけであり、ミホさんの私への書き込んで頂いたお話もそうですが、トピの話題から波及する幸福の科学の矛盾した内部情報は、実態を知る上でとても参考になります。 然し、私も一時期、初期の教義に傾倒していた訳ですから、徒に誰も批判など出来ないものです。 その想いが純粋で在れば在る程、尚更です..........。 内輪ならでのプラセボ効果やこじつけの奇跡は、何処の宗教団体でも在る話かも知れません。 うがった見方をしてしまえば、少数であればまだしも、人が集まり組織が大きくなればなる程 何万分ヵの1の確率で起こる偶発性も否めないとも思います。 然し私は、決して立証や確証の持てない、神秘性の起こす奇跡を信じない訳ではないのです。 間違った教義で在りながらそれを標榜し、「だから本物」と定義づける浅ましさを想うわけです。 祈願祭に於いては、主宰が親祭すらしない。 お守りと称するものも、聖別すらすることもない。 宇宙根本神なら、それすらも必要には及ばないのだと熱心な信者は言うでしょう。 古からの伝統や形式に、余りに固執することも、偏った思想に終始してしまいますが 然しイエスもブッダも、先祖から受け継がれた宗教的スタンス、伝統を 大切に重んじていたと言われています。 それが礼儀、礼節だという訳です。 先祖から受け継がれてきた土台を、しっかり踏みしめた上での伝道をしていた訳です。 祈願に際しても、大勢で何かしら祈願をすれば、恐らくは束になった「念」による発動を 期待しているのかもしれませんが 然し、それが正当性に欠けるもので在れば、決して時期尚早などではなく、また天の蔵に宝が積まれることもない。 よく引き合いに出される有名な、カルメル山でのエリヤと、バアル・メルカルトとその妻アシェラの伝道師達との祈願対決を想い出してしまいます。 聖人を貶める罪は地獄行きと、教義の中で信者を脅してもいるそうですが 果たしてその教義に於いて、聖人を貶めているのはどちら側で在るのか 疑問に想うことばかりです。 Re: 私的に感じたこと
日付:2011/12/18 (Sun) 19:47:22 -名前:A
私的に感じていることなので、本当に素朴な疑問です。
沢山勉強されている方や、詳しい方々には失笑を買う疑問かも知れないのですが お釈迦様が幸せの境地、すなわち悟りに到る道のりの過程で、これ以上ないというほどの 難行苦行と言われている肉体行をしたと言われていますよね。 しかし「悟りに到る道に、難行苦行の肉体行が不可欠であるならば」と仮定して ..........「であるならば、悟りに到る為には、生まれ変わる度に、過酷な肉体行をしなければならなくなる」 ...........究極の幸せになる為の方法がこれで在るならば 「人は生まれて来ること自体が、苦しみを繰り返すことになる」 「生まれて来ることが苦しみならば」 「人は一体何の為に生まれてこようか、そんなんでは生まれて来ること自体、無意味なのではないか」 みたいな想いを抱きます。 つまり、歴史、カルマは繰り返すわけで、また生まれ変わっても彼岸に到る道、悟りを求めるなら、必ず難行苦行が待ってる事に、究極の幸せなんかとは程遠い意味の無さを見出し、難行苦行の中には悟りに到達する道は無いことに気がつきます。 私なんかより、皆さんの方が詳しい話かと思いますが...........。 本題はここからなのですが であるならば、宇宙根本神と名乗る者が生まれおち、法を説いた場合 その者が不労所得を得る為に 豪邸に住む為に 外車を乗り回す為に 高価なスーツや腕時計を身につける為に 贅沢な暮らしをする為に またその者の家族や側近が贅沢三昧な暮らしをする為に 信者は、生まれ変わる度に せっせこせっせこ献金しなければならないハメになるんじゃないのだろうか... 宇宙根本神に直接祈りが届く為に 過去の罪が全部許される為に 魂を再生し、仏の光を入れて未来を変えて行く為に そんな祈願の為に 生まれ変わる度に高額な出費を課せられる様になるのではないだろうか 願いや祈りは届かずとも 空虚な伽藍を乱立させる為に 何百万もする御本尊を購入する為に 金、金、金のノルマ、代価を 生まれ変わる度に支払って行くハメになるのではあるまいか 宇宙根本神に倣うことが人間の究極の幸せに到る道であるならば その金にまつわる信者のカルマも永遠に続くことになるのではないのだろうか これは屁理屈なんだろうか 何だか私は、幸せなんかとは、随分程遠いところに在る様な気がする。 |